11代目のブログ

酷暑

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 良い天気が3日間続いている。おとといは、ある診療所に向かって秋の景色を楽しみながら車を運転した。
 ふと何か感じるところがあったのか、診療所の用が終われば蕎麦でも食べて帰ろうと思った。秋の爽やかな気分が刺激して、蕎麦が無意識の世界から湧き上がってきたようだ。

 向かっているのは、前に書いた、山越えの道から落っこちそうになった方面である。この地方は、山がちであり、蕎麦の畑が結構あちこちに見られる。
 そのせいもあってか、この海辺の街の宴会の終わりにはいつも十割蕎麦がでてきたのが思い出となっている。美味しかった。蕎麦の分類でいうと田舎蕎麦にあたる。

 昔、県庁所在地で長く働いていたとき、親しい友人を飲みに誘うと、すぐ蕎麦屋で飲もうと提案してくる。彼は、更科蕎麦が好きであった。私は、真反対の田舎蕎麦派であったので、つるっとしたのどごしの良い、そして香りがさほど強くない、一番粉の蕎麦は苦手であった。飲むだけ飲むと、彼は更科蕎麦を〆に食べるが、私はつまみを〆にしていた。

 行こうと思っている蕎麦屋はもちろん十割蕎麦で、四番粉までを使っている。高齢のご夫婦がやっている店である。数年前に行ったきりで、まだ店をやっているか心配だったが、年季の入ったのれんが下がっているのがみえたときは嬉しかった。
 のれんをくぐると、若いザックをしょった男性旅行客が1人、奥さんと談笑していた。

 「蕎麦をお願いします」と早速注文する。この店は、天ぷらなどの具を載せるメニューはない。七味とネギの薬味で、手打ちの生蕎麦と魚系のだし汁とをひたすら味わうのである。
 以前、奥さんが「旅行で来たご婦人グループが天ぷら蕎麦を注文されて、断るのに困った」とぼやいていた。
 平日の午後1時半なので、客は1人だけだった。旅行シーズンの昼時は、予約しておかないと、蕎麦がなくなったり、混んでいて断られることもある店だ。

 この店、私の古民家とは全く作りが違う。間取りも、天井の高さも、土間の長さも違う。商家の造りである。
 土間は、店の人の出入り口というか配達口から、奥へ一直線に伸びていて、裏口まで続く。歩く途中にはおか持ちが10個くらい並んでいる。もう使っていないだろうに・・。でもホコリもかぶっていなく、風情がある。
 裏口付近に、ご主人の手打ちの作業場がガラス越しにのぞける。なぜのぞけるのかというと、客はそこを通ってトイレに行くからである。

 のれんは、店側の出入り口にかかっている。4人がけの小さな卓(テーブルとはいいたくない)が4つ並んでいる。
 その奥は、客間になっているが素晴らしい空間である。本当に、由緒ある海運の町らしいたたずまいである。
 もちろん、客間から2階に上がる階段は見事な箪笥階段であるし、客間から土間の天井を見上げると、明かり取りの窓から日がさして大黒柱が濃い赤でテカテカに光りを放つ。
 誰かを案内してくるときは、この客間の重厚な座卓にお邪魔するが、その日はなぜか、ぷらっとしてきたせいか、店の卓にした。

 奥さんに、「元気でしたか」と話しかけると、逆に「今の時期はあまりうまくないよ」といわれ少しがっくり。よく考えれば、まだ蕎麦の花が咲いているっけ、と思い出す。

 そして、「じつは暑くて暑くて、蕎麦打ちがうまくできず、お盆明けから9月27日まで店を閉めていた」と話し出す。団子みたいになるという話しだった(蕎麦は打ったことなどないのでよく理解できない)。夏は湿度が高く固まりやすいみたいだが・・・。
 長年の専門家が困ったというのだから、相当なものだったのだろう。もちろん、作業場に冷房があるのかどうか知れないが、季節に合わせて自然な湿気と窓から入る微風のなかで作っているのだろう。

 ソバ湯を堪能して、支払だ。「いくら」と聞くと、女性の高い音が聞こえにくくなっているので「750円」と聞こえた。しかし、「はいおつり」と手元を見ると450円。『まだ、550円でやっているんだ』。少なくとも20年前も550円だった。「まだこの金額でやっているの?」というと、「ちょっと醤油はあがったけど、新そば粉はどうなるかねえ」と上げる気ははさらさらないように聞こえる。

 のれんをくぐり、外に出る。人気はなく、静まりかえっている。

 西回り海運時代、船頭たちが風待ちするために使った旅籠や花街で栄えたイメージの街並みである。実際は、明治半ばの大火後の家並みであるが、江戸時代の風情が色濃いようにみえる。

 帰りも爽やかな空と濃い青の海。すこし、波が砕け、濃紺の海に映える。

 幸せなプチ旅であった。
 
 帰りの車を運転しながら、もう何十年も前の宴会で一緒に飲んだ人々の顔や、もう数年会っていない更科蕎麦の友人を思い出した。

写真:蕎麦の花  (2023年10月撮影)2023.10.13日記