人から聞いた話しである
ある著名な万葉集研究者と新進気鋭の作曲家がいたという
その2人が、コンビを組んだ
万葉集研究家は、戦争で実家に疎開していたが、元の大学の教授に復帰する予定であった
その親戚筋の作曲家は東京芸術大学の作曲科の学生であった
昭和24年前後(75年前)の話しか
敗戦からの復活のための毎日
戦後、学制改革も行われた
旧制中学と旧制女子学校は、新制高等学校の共学にアメリカなどの民主化方針で変わった
(自分でも、古くさいことを言っているなと思う、私はまだ生まれていない(数年後の生まれ)のに やはり時は移る いつの世代も近代史もしっかり知っておく必要があるが、UUUM、古いなと思うし、過去の世代になりつつある自分は悲しいなとも思う)
それはヒトという動物である以上仕方ない 私はロウソクの長さがいよいよ短くなっている そのためか過去の歴史に触れることが面白い
さて、実はそうした発足した戦後から、そこから始まる65年後にあった人の話(噂話)を聞いたのである
彼の旧制中学と高等女学校の歴史のある学び舎 校歌が軍国調であったので新校歌を制定することになった 昭和24年頃というのは書いた
それで作詞家と作曲者に依頼した
その結果、使者が田舎と首都と行き来してなんとかできたものであるが、
まず、作詞者は万葉の学者であり、『歌と評論』という結社の同人誌も営んでいたので、万葉調のゆったりとした格調ある詞である ひらがなで『ひのひかり かがようなみに うみつどり はばたきあそぶ ・・・』となった そして、作曲家は新進気鋭の方であるが故に、テンポや音階に大きな夢を込めた 難解なピアノの演奏を求めた
ところで、世の中の名曲はオリジナルもあるが、編曲でそれも名曲になっているものもある また、編集でカバーをされているものも無数にあることを思いだして欲しい
さて、後世のある校長 そう、約65年後にその校歌の楽譜・・ 戸棚の奥から見つけてしまった、と聞いた
みな、それまではある編集の校歌の楽譜で演奏し歌っていた 林光作曲という銘で・・
65年間・・・
なぜだろう そんなことが起きてしまったのは これからは私の類推だが、
多分、式典でお二人が出席し、オリジナルの内容で演奏されたのであろう
そして、その後、ほどなく、どこかの時点で曲が編曲された
つまり、異なるバージョンになったのであろう
さらに、オリジナルの楽譜は奥に仕舞われたまま、忘れ去られた
あるとき、ある校長が書類の整理をしているうちに見つけ、音楽の専門家に相談したらしい
ということを風の噂に聞いた
そうか、私は編曲校歌を同窓生として林光作曲のオリジナルと思い、歌っていたのかと思った
それは、しかし、私の校歌であることはまちがいない なぜなら、同窓は同じ歌詞を歌えば、問題ないのかも知れない
それからのこと
お二人の名前は、聞いているし、その噂話?を話しても良いのかも知れない
作詞は 藤川忠治
作曲は 林光
らしい
一時期、編曲以前のオリジナルが式典で使われていたようだが、ピアノ演奏者泣かせであり、再発見後12年たった近年はどうなったのかな?
と、その話し手はいっていた
さて、どれが校歌なのだろうかと同窓生の私は想う
写真 20250521 いただいたオリジナルのコピー 多分、林光の文字であろう
追伸
この噂話を聞いて、約12年後 いつの間にか元の編曲楽譜に戻ったらしい 難解なピアノ演奏テクニックができないという話しを聞いた でも、卒業生の僅かの何人かは弾けているという それってどうなんだろうか?
どうも、来年、私の古民家の築年数マイナスひと世代年数の創立○○周年の記念行事が行われるみたいだ
その時の、楽譜はどうなるのだろうかと
その語り手の話しを聞いたとき、深読みしてしまった バカなことさ
藤川 忠治
フジカワ チュウジ
生年明治34(1901)年2月20日
没年昭和49(1974)年4月3日
出生地新潟県佐渡郡羽茂村(現・羽茂町)
学歴〔年〕東京帝国大学国文科卒
経歴佐渡の造り酒屋に生まれる。旧制新潟高在学中に河野慎吾主宰の歌誌「とねりこ」同人となる。東京帝大では大学短歌会に所属。昭和4年「歌と評論」を創刊・主宰。8年卒業論文「正岡子規」を刊行。法政大学予科などで教鞭を執り、26年信州大学教授。41年定年退官。のち鶴見大学教授などを務めた。歌集に「胎動」「練馬南町」「かりばね」などがある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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