今住んでいる家に婿みたいに居候している。
家のことについては全く権限がないから、面白くないといえば面白くないが、気楽といえば気楽である。
この家も建ててから35年は経っているから、あちこち傷みがきたり、設計が古くさくなっている。
例えば、カーテンが日焼けや経年劣化で生地が弱くなっている。また、お湯の出が悪くなっているし、設計面でいうとバリアフリーでない。
お湯の出が悪くなっているのは、配管が鉄管で錆が出てお湯の流れが悪いからである。25年くらい前から、プラスチック製の配管になってきているので、錆が出ることはないから改善されている。
古民家の家も、今から6年前の改修までは同様な状態であった。というか、もっと始末に悪かった。前回の水廻り改修から50年近く経っていたからである。
父親が亡くなった後、母親が1人で住んでいたのだが、結構頑固な人で現在に固執するところがあった。次女だったせいかもしれないが、次女が全てそうだとはいえないだろう。よく言えば若い頃から頑張り屋さんであったが、年とともに変化を避けるようになってきたのだろう。
お湯は、栓を目一杯開けてもチョロチョロしかでない。風呂はシャワーでは使えないし、風呂おけに湯を貯めるのも30分はかかった。
この原因は二つあった。電気温水器のなかの配管に錆がこびりついているのと、床下の配管に錆がこびりついているという二つというか、単一の原因である。
何とかしたらどうかと忠告というより、何とか快適に過ごしたいという願いは叶えられない。
お湯がチョロチョロとしか出なくとも、ゴム手袋をして洗い物をすれば問題は何も無いと言い張るから、お手上げ状態・・
あるとき、庭管理に軽トラックを買いたいというと、一言、「そんなもん何するんだ」とキメが入り、それ以上何も言えない。
軽トラックは、母親が亡くなってすぐ買ったし、母屋の水廻りの改修もすぐ始めた。
今回、婿さん状態のこの家で、ついに家人が「みずまわりを直そうか」といいはじめてくれた。
昨日、家人は親しくしているある業者を呼んで話し込んでいた。私にも同席して欲しかったようだが、図書館に出かけるといって今のところ様子見である。
やっぱり、自分のやり方とは違うからだ。
請負業者を使うのではなく、腕の良い職人たちと一緒にワイワイやりながら、教えてもらいながら、そして自分の考えを貫く。多少お金がかかっても、満足できるものにしたい。
企画するのが好きなのかも知れない。
しかし、家人はいう。今のうちから、物件管理を将来的にその親しい請負業者にみてもらえるようにしたいからという。
その通りなのだ。
いつまでも元気でいられると貫き通せる年齢ではなくなってきている。
老いるということは、新しい発見がある。
あまり嬉しいことではないが・・
みえる人生の地平線の角度が変わってくる、ともおもえる
どう角度が変わるのかって
それは、想像にお任せするが
仏教の考え方で西方浄土があるが
それがみえるような・・・角度かな
写真:秋の空 (2023年10月撮影)2023.10.19日記