11代目のブログ

神戸から②

神戸から②の画像

 昨日は日曜日であった。

 神戸を初めて訪れたのは、もう7年くらい前になる。それは、結婚して新潟のある雪深い土地に住んでた2人が神戸に引っ越しして、赤ちゃんを産んだからだ。
 それが今の初孫の男の子。
 もう小学生になった。

 神戸は昔、何度か観光で訪れたが、バスを使い、いつも神戸北野の異人館巡りをしたり、まあ、九州から京都に向かう途中の観光地としてだけだった。
 きれいな町だなあ、という印象しかなかった。

 そして阪神大震災はその画像で釘付けになった。

 さて、60代にはいり新潟に再び移り住んでいて、ある目的に向かって頑張っていた頃のことだ。
 ある目的は、今の仕事とは全く正反対のようなことであった。

 そのときに住んでいたのは、県都の駅のすぐ横の小さなマンションだった。
 まだコロナ前で、世の中が安心して生活し、移動も海外、国内ともに自由に、そして活気にあふれていた頃だ。
 駅の南口に夜行高速バス乗り場があった。
 夜マンションで風呂に入り、一杯やっているとちょうどバスの出る時間になる。
 ほんとにワクワクして孫に会いに神戸まで出かけたものだ。
 夜行バス利用の、車内2泊で、二泊三日の旅が多かった。せいぜい神戸で1泊増やし三泊四日の旅が多かった。なぜなら、結構タイトにしか日程がとれなかったからだ。すべての日頃の時間をある目的のためだけ使っていたからだ。

 それは、生きがいという点では、とても人生に大きな影響を残している。目的達成のために、頑張っていたからだが、もうそれは諦めた。過去の自分の姿でしかない。

 孫と会い、そして神戸の町を歩き回った。孫の母親は、関西育ちで神戸は高校生頃から住んでいた。

 それが縁で、神戸の町を知ったのだ。

孫の成長とともに、訪れた回数は増えていく。
 お宮参りから始まり、孫の誕生日など節目節目に訪れた。
 夫婦の引っ越しにも、役には立たないが立ち会ったりもした。

 だから、神戸に住もうと決心したときには、土地勘は大部できてきていたからそれが可能だったのかもしれない。

 冬は天気が続き、気候も瀬戸内海で温暖風光明媚である。
 人々は老いも若きもおしゃれに過ごしている。
 電車に乗ると、人たちのウオッチングだけで、生きている息吹をもらっている。
 この地方から、冬のどんよりした雲間を飛ぶ航空機から見える帰りの風景はいつも、気が重いものになっていた。
 そして、古墳時代から飛鳥や源平合戦、戦国時代から江戸時代の歴史が色濃い。孫の住む貸しマンションは「西国街道」と刻まれた石柱の脇にあった。
 「西国街道か」といつも、心の中で長い歴史の中で刻まれたその時代その時代の街道筋の移り変わりを想像しては楽しんでいた。

 ここでは関西の文化、歴史に直接触れることができる。それは日本の歴史の中枢になる。

 人生の最終章の前に、ここで過ごすのも悪くはないと思ったからだ。
 
 二十歳過ぎてもフラフラと生きてきていたし、仕事も人任せであっちで生活したりこっちで生活していたり、仕事先だけで十数回も動かされたから、こんなやり方も他の人よりあまり苦でないのかもしれない。
 それは、ふるさとに残る人生の相棒もそう言うことが結構ある。

 だから、風来坊みたいなものだ。

 そしてさらなる願いは、会社の道筋を少し広げることでもある。
 
まあ、そんなことでここにいる。
 人生の相棒は、嫌になったり生活するのが苦しかったらいつでも帰ってこればいい、といってくれている。

 残りの人生は自分のものだから、楽しくも緊張感をもって生きたいものだ。

令和6年9月16日早朝記 今住んでいるのは灘区で写真は孫たちの登校風景 学校はこの先を高度差30mも登った坂の上にある。その小学校の脇に住まいを構えた。

 だから、日々登り下りの生活 足腰は鍛えられるが、田舎で車生活しかしてこなかった我が身には堪える。それも、一つの大きな目的でもある 運動不足の解消!!! ただ、諦めて登りの苦行に耐えるしかない。歩かねば日々のスーパーでの買い物もできない。後ろにリュックをしょって登りを一歩一歩戻る。スーパーマーケットからは約10mの高度差 距離は短いが結構きつい登りだ 降りるときは急坂で足が少し痺れることもある

 今日は敬老の日 年はとったが敬老なんてと思ってしまうが・・・、実際はそんな自分がいる

明日は十五夜、神戸の街にのぼる月はどんな風景だろうか