倉敷である古本を手に入れた
それは、絵本にかかわる本である
最初は、それがどういう意味を持つものかわからなかったが、何度か手に取ってみた
当初は、エッセイと思って買ったし、己の制作本の参考にと思ったのが、それはおおきなまちがいであった
硬派であった
あまりに手強いので、拾い読みをするが、数日おきくらいに手持ち無沙汰になると気になってしまう
全く、己が自己嫌悪に陥る
至らない己の本を世に出していいのか、という葛藤である
こうやって少しずつ、述べていても、この松居さんの本の世界をどう描いたらいいかわからない
絵本の持つ深層心理
世の中の出来事のなかで、与えられている怖さ、恐怖や死というもの、そしてそれから常に心の奥に潜み、そして一生つきまとうチクチクとした想いというもの
それは、神話であり伝説であり物語である 物語の一つの切り口は絵本である
ユングのいう原型がそれである
私は、よくわからないのだがそれをこの本では提供しているのかも知れない
絵本、ぐりとぐら 膾炙されている定番であるが、それは初級絵本と名付けたと筆者いう
『より多く子どもの現在にかかわる絵本』であるという
『上級絵本は、より子どもの未来にかかわり、昔話のように、時には怖いなかにも生きるための、智恵や勇気がかくれている絵本』という
そして、それは大人が好まないので、絶版本が多いともいう ”松居友:私の絵本体験p127,大和書房,1986”より
が、よく知られているのは、スーホの白い馬である、という スーホの白い馬は、王様に射たれ、そしてその亡骸から骨と皮で馬頭琴をつくるというものだ
そうか
昔、孫が幼い頃、そう3歳くらいのとき、嫁のお母さんに「人は死ぬとどうなるの」と聞いたらしい 「骨になるんだよ」と言ったと聞いた それは、あたかもスーホの白い馬が、想い出の大切さとそして命の大切さを子どもたちに問うているようにみえる
いいかえると、孫との会話は、それでそのまま終わったらしいが、それはそれで大切なことのような気がする
人間界の限界というか、多くの先人たちが迷い、悩み、答えを見いだしてきたことなのかも知れない
それが神話であり口伝であり、祈りであり、宗教が存在することにおおきな意義があるとするならば、それがヒトのもつ心の優雅さというか悲しみの表現なのかもしれない
どの民族にも、神話や民話があり、宗教がある それは、ヒトがもつ共通の心根ではないかと そして、ヒトはおぼろげなからそれをいつも想い、生きる意味を問い続けるのであろう
『怖ろしさを克服してゆくということは、真実に一歩一歩と近づいてゆくことで、子どもにとっては最も重要なことの一つにちがいない』という ”同書p110”より
写真 20250706記 写真は昨日 3歳になったばかりの孫 ブロック遊び 隣では、小2の男の子が一心不乱にサバイバル本を読んでいる
当初、拾い読みしていると、この本の後半は、アイヌのユーカラの話に移行している どうも、絵本の話の背景に深いものがあるように感じられて仕方がなかった
あるとき、ユングという文字が眼に入った そうか、『やはり』とおもった 河合隼雄の言葉も出てくる
そして、このブログを書いているとき、このひとが大学院時代にユング研究会に属していた文字を見つけた
私のここで書いている葛藤とは、坂道で石が転がり始め、とまらないという 畏怖への葛藤である その畏怖とは、こんなブログの話にどんな価値があり、製本していいのだろうかという、ものである 石ならば、それは平地になれば止まる 本でいうと、いつかは本となり、手元に届く そんなものを、図書館に献本し、頒布していいものだろうかということである 怖くなってきたのである この方のように、深い思想や思考に裏打ちされたものを想うと、怖くなるのである