昨日から、ズウッと考えている それは松居さんの本のことだ
少し拾い読みから、ある程度広い範囲を読み始めてみると、久しぶりに心の世界に佇み、その海で漂ったり、少し潜ったり、海の大きさに溺れてしまいそうになる己につきあっている
彼女は、ファウストのことまで持ちだしてきている
私は、ファウストの話には今まで荒唐無稽とおもうばかりで全く興味がなく、その価値についてよくわからないまま生きてきた
今回、彼女からその入門の糸口をもらった
ユングは、学童期のころ、母親から勧められ繰り返し読んだようだ 大学時代は、聖書よりもおおきな意味を考えるようになっていたらしい、ということらしい
彼女はいう 『これは、ユングやゲーテの世界観にもよく現れているのですが、例えば一本の野辺の花にも、宇宙が現れているように、また1人の人の心にも宇宙が生きているように、現象的な世界の内には、象徴的な世界が宿るばかりではありません。象徴的な世界は、現象的な形においてこの世に存在するのです。』
”松居友:私の絵本体験p158,大和書房,1986”
人間の生み出してきた、生み出そうとする、文学、芸術などなど多くの現象から、原型的な像を追求したともいえることに初めて気づかされた それは、ゲーテも同じだというのだ
つまり、ゲーテは何十年もかかり晩年にファウストを書き上げた ユングは人間の心の治癒を求めたといいたいのだろうか
ゲーテのファウストは何をいいたいのだろうか
さて、彼女は、絵本の挿絵は物語のイメージを固定するか、というテーマの一文で意見を述べている 『まったく、思い過ごしにすぎません』と述べている それは、『胸に手をあてて、昔話絵本の思い出を静かにたぐりよせてみました』とある ”同書p155”
私も同じように思い返してみた
昔話
むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは山へしばかりに、おばあさんは川へ洗濯に行きました
有名な出だしだが、そこにどんな絵が描かれていても、その心は変わらない
子どもは、でだしの、『むかしむかし』でその瞬間に異界に入り込み、もう想像力で呼吸しているだけであるはずだから
そうすると、ファウストの結末はどう想えばいいのだろうか
これから、静かに考えていこうか この歳で、こんな課題を抱えてしまうとは、トホホである 夜になれば一杯ばかりしてきて、時間を浪費しただけの人生、今までの不勉強のツケである
めをとじて、むねにてをあてて、さあさあ・・
写真 20230714 田舎での梅雨 例年はこういう年なのに、今年はもうカラカラ いま思うと慈雨といえよう
昨夜遅くのブログはさあっと書き下したのだが、朝からきになり手直しをはじめていたら、行きつけの女医さんの予約時間が迫り、編集を中途半端にしたままでかけてしまった
その女医さん、私の塩分摂取量不足がはなはだしいという 一日2.5g程度しか摂ってないから、梅干しを食べろという 「エエッ」である 夏になり、発汗による消失量が増しているという また、血圧も低いので要注意であり、薬を減らすように調節する、という
というか、そこまできめ細やかに見てもらえるのは、幸せの一言
そしてそれから、大手町の最終工事の確認に1.3kmをヒートアップしながらも上る 駅からの標高差26m 工事とは、庭の木の根っこや蔓の根っこを剥ぎ取り、駐車場化するものである また、キッチンのフードファンの改装である 着いたら、もうクールダウンまで時間を要した
帰宅したのは、1時 それから、スーホの馬について、補遺をする
そうしたら、ムクムクと書き足らないことが気になり、またブログの文字を削り加える 何回も それがこのブログの今である