農業というのは、日本全国で行われているのだが、農業の持つ理不尽さは前史あたりまえまで遡れるであろう。
飢餓や富の蓄積、貧富の差が生まれた素であろう。
戦前戦後でいうと、地主と小作問題、農業委員会制度のGHQによる導入。
高度成長期には、減反政策とその後のうねるような紆余曲折する補助金。また、政治家や業者の暗躍。
農家は一部の地主をのぞいて小さな地主を含めいつまでも貧しかった。今もその流れは底流で続いている気がする。明らかにされていないだけである。
私の父は、戦後の農業政策に翻弄された。
私は翻弄されてはいないが、なかなかチクチク面倒である。
私は、今でも1.2町歩を持っている。それは、相続したものだが、小学生の頃多少は労働したので、父や母やその先祖の気持ちは多少わかる。
ところが、継承した田畑であるが、それが持ち主である土地登記者の思うようにならないことにここ何年も衝撃を受け、不満も感じている。
そこで、少しずつ法令や規則、そして実態を把握しながら進んできたが、このままでは何も農業を知らない私の次世代の息子に渡せない何点もの課題が残るはずであった。
不動産収入は、純粋に賃貸契約だけの話であるのに農業政策に縛られているのである。
何のことをいってるかさっぱりわからないと思う。
今まで管理をしていた母親が亡くなって8年、次第に見えてきた矛盾である。スマホやパソコンにはまればはまるほど奥が深いのと同じである。
矛盾を切実に感じ始めた発端は、田畑の所有権と使用権のことである。所有権は私にあるのだが、国の施策によってがんじがらめになってしまい、所有権はあるがいちいち行政や農業委員会にお伺いを立てて、訳のわからない文書を書かせられて、提出して数ヶ月から1年単位でその結果を待つという、とんでもないことになる。
OKが出るのかもわからないし、出ないのかも知れない。待つのみである。自分の土地なのに、国の施策でアッチコッチ振り回される。
まず、一番に取りかかったのは、とういうかせざるを得なかったのは山林にくっついている山地の水田である。葦が生えて、もはや完全耕作放棄地であるが、ある農家の休耕田という名目で、水田のままであり、国の税金が費やされている。
私にとって着手した初めての経験になった。
が、これは割合簡単に農業委員会のOKがでた。20年近くも荒れているし、周囲も放棄田ばかりであるから、もう無理と判断された。平成29年のことである。
だいたい、全国にある農業委員会とは何かも知らなかった。教育委員会は知っているかも知れないが、そうかいと思うだけで、ほとんどの国民はその実態はよくわからないはずだ。
かなり柔軟な考え方の組織であるとわかったのは数年後であるが、その時は壁のように思えた。
次は、家の横にある畑である。父親や母親が昔から野菜を作ってきた畑であるが、私はもう作っていないし、しかし思い出のある畑である。荒れないようにそのために平成29年にトラクターを買って時々で耕していた。
トラクターというと、高そうに聞こえるが、離農農家の中古トラクターを12万円で手に入れたのである。
ここを貸家の駐車場にしたいと思ったので、農業委員会事務局にでかけた。それが令和3年の春であった。すると事務局の人は農業施策の部署に連れて行ってくれた。
というか、物知りげに案内しただけであった。全く腹立たしい。
そこで、担当者から私の田畑はすべて「中山間地域等直接支払交付金」の指定区域として網が被されているというのだ。それを外すのはまず難しいという。
水田ならいざ知らず、小さな面積の畑も大上段から国の制限を受けているというのだ。
すごすごと家に帰った。
写真 深秋のポプラと深い空
(2023年11月撮影)2023.11.15日記
追記 実は、このブログは11月11日に憤りを感じて書いたブログを改変したものである。それを読んでいただいた方は9人おられた。
今回、整理し直した。また、その後の様子も変化している。『大上段のその2』も書いたので読んでいただきたい。その2では書き切れないので、その3を書こうかと思っている。
私にとって、二束三文の土地であっても、日本国民である限り、そしてご先祖様の耕してきた土地である限り、有効活用したいと思っている。しかし、次の世代がどう扱うのか。
有効活用して欲しいと祈るばかりである。それは、我が家族や日本の繁栄に有効であろう。
おまえ、保守か・・・革新か?
勉強不足の一個人かも