なにか、今年の流行語大賞候補のような気がする
やはり、それはないでしょ、という気分だ
はじめはなにか悪いスローガンではないからまあいいや、と気にもとめなかったが
やはり、ある指摘に気づき、合わないなと思う
さて、ここ数日、考えるところがあって、あるバカの壁を乗り越えられるかもしれないと思い始めている いまごろなにを考えているのかということだが、壁はなかなかのものだ
それは、今まで生きてきた自分の限界が見えてきた証拠かもしれない
フィジカルでもメンタルでも
弱ってきた気がする
行動を急ぐと息が切れる、注意力が弱くなりつつあり一つ一つやり切りながら進めないとうまくいかなくなってきている
そんな毎日を送っていると、悟りとは何のためにあるのだろう、といつも思いながら急坂をこなしている
悟ろうと思ってはいないが、なぜ人生はあるのだろうか
それでも、神戸で生かされているのか、急坂を気長にヨチヨチ歩きながらちょっとした距離を上れるようになってきた
田舎の車社会は己には弊害だったかも・・・
戻り考えると 生きるとは、楽しいことなのか?
人の生による活動や行動によって、社会的な事件や事故が報道され、不幸なことも多い このようなことのない世界はないものかと思う
生きるとは、本来楽しくあるべきものだと思う、が実際はそのように生きられないのが現実なのだろう
日本だけではない
トランプは、何か間違えている それは彼の資質のなかに潜んでいる気がする
楽しくは出来ない国際社会である
そして、戦争や膨張主義や地球を浪費している国際社会であるが、それでも少なくとも第二次世界大戦後、アメリカはパクスアリーナを進め、そのなかには、自由や民主主義という理念はあった
それが彼には全くないのがとても残念だし、気がかりである 彼が楽しいだけである
さて、元に戻り
私なんて、生まれてからの時間が過ぎ、古典的心理学者エリクソンでいう高齢期「自分の人生を統合」なんていうこととは全く違う気がする もっとも、「統合すべき」時期と思えば、学者のいうとおりだ しかし、とても、とても、そんな気にならないし、それこそ統合でなく煩悩にまみれてこれからも生きていくのだろうと確信している
何を言いたいのかわからなくなってきた
自分は何のために生きているのか、よくわからないから、愚痴っているだけと思う
毎日、いかに生きるべきか
昔、私が小学生のころ従姉妹の家に妹と泊まりに行くことがあった
年が数歳離れたお姉さんがいたからだ
そこには、長いひげの生えたお爺さんがいた
朝から、伯母が忙しそうに動き、そのうち農作業に出て行く 叔父は勤めに早く出かけている
そのお爺さん 全く急ぐこともなく煙管に刻みたばこを詰めて火をつけ、おいしそうに吸い、フーーッと吐く
そして、何回か繰り返し、炉にポンポンと吸い口を打ちつけ、煙管の灰を捨てる
隣で座って、黙って座って、珍しい光景だから、感心するような、そして不思議な気分で座ってみていた思い出がある
この人、伯母さんが忙しそうにしていても、働かない人だなー
そう思っていた
今思うと、70歳近くかもしれない
テレビもない時代
何をしていたのだろうか
何を思っていたのだろうか
いやはや
写真 2025/1/26 住まいの近くの柳の芽 春が近い
モノトーンの街は雪だそうだ 実家の裏の川筋に数年前に刈り込んだ柳の木がある 雪の中では芽はまだ固いか
写真は、孫たちに会いに出かける際に春を感じて瞬間切りとったもの 若いっていいことだ 未来がある
この社会が、楽しいものがいいかはよくわからないが、明るく元気に満ちて、挨拶が行き交い平和な日々が送れるものであってほしい