むかし、ある寺に60代の痩躯の短髪白髪の住職がいた
その人は、日蓮宗の小さな、そして祖先や自らも整えた静かな伽藍を持つ寺院を護っていた
日蓮の直弟子の1人が建立した寺であり、850年の歴史はあるのであろう
すぐ近くに、観光バスも停まるような名所の寺がある 拝観料も取れそうな伽藍を誇っている
そこは、武士経歴の弟子だったという したがって古文書もたくさん残っている 有名な文書である しかし、その老師は「うちは農民の弟子だから何もないんだ」と話しする この弟子は文字か書けなかったのかも知れない 確かに、従前の住職が地道に整えてきた確かな足どりを感じるそうした静かな寺であるからこそ、足繁く通ったのだ
田舎は、日蓮宗の聖地でもある
私の菩提寺は真言宗である しかし、日本史の教科書にも載っているが、鎌倉幕府は、あまりにも急進的な思想の持ち主である日蓮に田舎での過酷な生活を命じた
そして、破れ寺で紙にもこと欠くようなひもじい時期に日蓮は己の信仰に対する思想をまとめ上げた それが「開目抄」という奥義であるという
それは当時の真言宗との軋轢をこの辺地でも暴風雨をまねくように起し、いつ何が起きるか、暴力や暗殺など事態は切迫した状況だったらしい
それはそれとして、私の田舎に小さな寺の老師、そういう方がおられた 私が若い頃に知り合った方である
その方は、なんと70代後半になり、総本山の法主 (ほっす)に喚ばれた 痴呆症気味の奥様とご一緒になれない土地に住まわれた 法主であるから、毎日のおつとめが終われば、上げ膳据え膳なのかも知れないが、それは欲するところでなく、田舎でいつものように整えていた作務(草むしりである)をしようとしたら、すぐ止められたという そんな話しを私にするときは全く面白くなさそうな顔つきであった
それから数年、その職を辞するまでその役割を全うし、小さな末寺に奥様と戻ってきた 何か体力と健康の限界だったみたいなことをおっしゃっていた
帰ってこられたと聞き、訪ねたら、「また後始末で行かなきゃならいんだ」ということも、漏らしていた
そして、「月をみればそれはいいし、庭の花々をみるのもすばらしいよ」と、それがあたりまえのように寂しげでもありながら少し笑みを持って私に語ってくれた
それを、思い出した
抽象と具象の境界をいききしていたのだと、今はハタと思うが、そのころは理解もできなく、年齢を重ねることはとてもとても、若さやその喜びや艶を失うことなのか、と疎外感にかられた
それが、その老師との思い出の最後だった
そう、何年か後、入滅の噂を聞いた
いまは、その孫がひきつぎ、すばらしい僧になり、作務に明け暮れつつもすがすがしい寺院のたたずまいを今に伝えている
写真 三宮のフラワーロード沿いの東遊園地 20250709 法務局に用があり、早いほうが好きなので、朝の通勤時間帯に樹木の陰を探しながら進む
この公園は、遊園地と名づけられている それは旧居留地の外人向けのスポーツグラウンドが発祥だからといわれている
その後、阪神大震災が起き、慰霊の祈念の場所となり、冬の代名詞のルミナリエの拠点でもあるという
暑いので、毎日、仕事などの用事は一つしかしない
数日前は、神戸のラウンドマークのポートタワーまで歩き、結局それからすぐそばの神戸ベイクルーズに乗船し、神戸港を一回りした 平清盛の築港いらい発展してきた兵庫の津を回ることができ満足
今日は、そこへは行かないで素直に大丸横を通り、元町でいくつか用を足し、お昼前には帰宅
暑いからもう出たくはない
本当は、コインランドリーに行かなければ、出したい郵便物もあるのだが・・